神のことばに向き合う

 神の言葉に真剣に向き合ったことがない人々、人類の英知、理性が最良と思う人々にとって、
神の言葉のみにしたがって生きようとする人々の思いは理解できないだろう。
ましてやそのような生き方をする人々の常軌を逸した行動が報道されるとき、世の人々は
自分たちの正しさを誇ることになり、霊的な目はますます閉ざされてしまうだろう。

「神の言葉と向き合う」
・・・何が神の言葉か、どう解釈し、今何をすべきか。


 神の言葉を書かれたお方の意のままに読み解くことは時に困難を極める。
たとえば聖書に存在する我々の常識ではとても理解しがたい記事や奇蹟において、
ある立場は世の常識で割り引いて理解したり、またある場合は自分たちの有利に
なるように解釈を歪曲したり、また悪意の在り無しに関わらず、本来そこにないものを
付け足すこともあるかもしれない・・・

聖書においても、教会を築いてきた先人たちのその営みの困難さは例外ではない。
その末に、「聖書を字義通り読む」という解釈学が構築された。
文脈、時代背景、習慣、誰に対しての言葉か、神の時代区分(ディスペンセーション)などを
考慮した上で、今日、現代を生きるわれわれに何が命じられ、どう適用すべきか読み解く。

 聖書は単なる古典文学でも、また実用書でもない。その内容や、書かれた経緯、また他の
宗教との時系列などを考えるとき、私は聖書のみが誤りなき神の言葉であると確信するし、
それ以外の道に仕えるならば、それはどんなに真剣であろうと、偶像礼拝・霊的不品行として
神が嫌っておられる行為であると理解する。

(断っておくが、新約聖書において、神に立ち返った人々の中で、古い因習を合意の上で
捨て去るということはあった。しかし、他の宗教施設を積極的に破壊、弾圧するような行為を、
新約の使徒たちは命じなかった。)

もし「すべての教えが同じものを指す」というならば、それ自体の根拠はどこにあるのか?
どのようにしてそれらは調和するのか、その明確な答えを出した者はいない。いや出せないだろう。
なぜならそれは人から出た知恵であり、数多ある教えの一つさえ真剣に捉えていないのである。




イスラエルへの祈り(「月刊ハーベスト・タイム」より) 
――― 詩篇122:6”エルサレムの平和のために祈れ”

 ・イスラム過激派の思想的背景を理解する
 先日、イスラム国のハッカー部隊が米兵の個人情報を公開し、在米イスラム教徒たちに
「始末せよ」と呼びかけた。それで引用されたコーラン*の2箇所は、ジハードへの呼びかけの常套句である。

   *スーラ9:123「信仰する者よ、あなたがたに近い不信者と戦え」

   *スーラ9:14「かれら(=異教徒)と戦え。アッラーはあなたがたの手に
        よって」、かれらを罰して屈辱を与える。彼らに対し(うち勝つよう)
        あなたがたを助け、信者の人びとの胸(=心)を癒される」

・・・すなわち、イスラム教徒が異教徒に対して怒りに類する感情を持っているなら、異教徒を殺し、辱め、勝利することで癒される。
   
 さらに注目すべきは、預言者ムハンマドの言行録「ハディース」を引用し、そこから
「異教徒を殺すことで確実に天国へ行ける」と導くことで、過激派の世界観の根底としている。
「ムハンマドの命令を真剣に受け止めよ!」と説き伏せるのである。

 ムハンマドの教えとコーランの神学的権威から開放され、聖書に対して目が開かれるように・・・(新約聖書が)確かな理由もなく禁断の書とされ、ゆがめて伝えられたイエス像が改められ、正しく理解できるように・・・    
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