11月29日 日曜礼拝

11月29日 日曜礼拝(30)
天候:晴れ

■賛美 
聖歌34(旧92)ほむべきかな我らの神
84(136)みかむりをもなれは捨てて

■メッセージ:ゼパニヤ書講解③-素晴らしき主の約束(ゼパニヤ3:1-20)
①主を待て
②回心ときよめ
③喜びと誉れ



◆ 異邦人の町に続いて、南ユダのさばき
・ユダの町を表わす表現「反逆」「汚れ」「暴力」
・「呼びかけを聞こうともせず」(2)は申命記4:32-36などで示される神民の特権(神の御手によってエジプトから召し出された)ゆえに恐ろしい罪。神を知っていて離れた分だけ異邦人よりひときわ罪が重い。

・「信頼」と「近づこうとする」こと両方の否定。信頼(信仰)することは愚か、謙遜にそこに向かおうとする心の姿勢さえ欠如している。したがって、神に近づこうとする者は、行動ではなく信仰に依らなければならない。行動はその結果である。なぜなら神は内面・動機をご覧になるから。

◆ 指導者たちの責め(首長、さばきつかさ、預言者、祭司)
・ミカは北と南両方にさばきの警告をした特徴的な預言者。
・ミカ書2章はさばかれる理由6つを挙げている箇所であり、1-5節で一括りとみられる。罪の本質は貪欲。

・ミカは田舎の預言者であり、同時代の預言者イザヤは都市の預言者(ちなみにこの時の王はゼパニヤの4代前の先祖ヒゼキヤ王)。この3人が並行する100年前には、都市も田舎も腐敗がはびこっていた。

・「骨をかじって…」は「すさまじい食欲」もしくは「空腹の度合い」を示すが、どちらにせよ「貪欲」を表わしていることに変わりはない。

・5節より、主の正しさは日々明らかに示される(逆に不正は暴かれる)。しかし当の不正を行う者たち(正しい神に仕え、民を導くべき者リーダーたち)は、正しい神とは対照的で腐敗した存在である。彼らは不正に対して恥知らず(顔色を変えない、厚顔無恥)。

・これまでゼカリヤの口を通した神の言葉であったのに対し、6節以降は神自身が乗り出すように「わたしは」と語る。「諸国の民」(異邦人)のさばき(2章の内容)の再記述し、7節の「」でユダの民の立ち返り(神への畏れ
 を思い出すように)を求める。

・8節はさばきに向かってゆく南ユダへの励ましとなる将来の預言。さばきを受けることが神のみこころ(7)。異邦人同様徹底的なさばきを受ける。しかし神は南ユダにはわずかな信仰者(レムナント)を残すから、行った罪の重さにもかかわらず絶たれることはない。

・将来について、内容は南ユダに対する苦難の完全な終局と、彼らを責める異邦人たちへのさばきの終局。つまり単に捕囚以後の世界の説明ではなく、患難時代後についての言及。ユダヤ人への終末の約束(預言)である。

・一連の流れから分かること・・・「終末の神の約束(さかのぼればアブラハム契約)が成就するために、罪深き南ユダは残される」という壮大な計画が見えてくる。ゆえに「さばきを受け、主を待て」である。

◆その後の世界
・9節は唇の回復(バベル事件のさばきとして起こった多言語の統一)と霊的姿勢(賛美)の回復。10節は異邦の礼拝する者や散らされた(刑罰的意味)ユダヤの民。

・11節は民の状態の変化。2:1、3:5で「恥知らず」と言われた民がもはや恥を見ることはない状態に。

・12節「へりくだった寄る辺のない民」は「悩まされた、貧しい」霊的状態。彼らは主の顧みの内にある者(イザ66:2、ミカ6:8、マタ5:3、Ⅰコリ1:26-28)

◆喜びと誉れ
・恐ろしい冒頭の言葉で始まった預言書が、ここに来て神の愛の呼びかけのピークに達する。

・14節「シオンの娘…」小さい村々が「娘」と表現(民21:25「村落」など)。

・主が神の民の王になる(申命記33:2-5)。後に来るメシアについて(ヨハ1:49で引用)旧約預言の成就はイエス・キリスト。

・旧約のヨハ3:16と表現する解説があるくらい温かい聖句。"神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであった。"(新約聖書 ヨハネの福音書)。

最後に
ユダヤ人たちは、旧約聖書を通して「来られるべきメシア」(へ:メムラ、ア:ダバール)の存在は知っていた。しかし初臨と再臨の区別がなかったこと、そして受難のメシアというイメージが欠けていたことは悲劇である。かくして彼らはみどりごとして来られたイエスを拒否することになる・・・

【適用】
・クリスチャン(特に異邦人)も、「南ユダを絶たせない」という約束同様に今日消されることがないのはなぜか?(ヒント:ユダヤ人との関連で、ローマ書の内容より)
・ユダヤ人に対して示された終末預言は、異邦人クリスチャンにとっても無関係ではない。患難時代に教会は携挙されていても、ユダヤ人と異邦人はその先にある祝福を共に受ける存在であるから。
・異邦人の私たちが、なぜ信仰によって「神の子」とされ、なぜ私たちの内に入ってくださり、なぜ「イスラエルの神・主」と呼ばれる御父と親しい交わりが持てるのか?・・・人として卑しい姿で生まれたイエスさまを覚えたい。
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