過越の祭りってどんな様子?

過越の祭りの西壁の動画を紹介します!

 聖所を汚すことなく、かつてそこに存在した神殿を思い、少しでも神のそばに寄るための場、それが西壁。エルサレムの町中がすごい人混み。とても観光どころではないといわれるが、その通りかもしれない。

 旧約聖書の時代から、五旬節、仮庵の祭りを合わせてイスラエルの3大祭りとして重要視され、神はイスラエル男性に巡礼するように求めた。今日のユダヤ教はモーセの律法にラビ(教師)たちの律法(口伝律法)が加えられ、それらすべてが神の命じるところとして今日も機能していると認識するため、巡礼のためエルサレムに集まる。

 クリスチャンはもちろん律法の役目は終わったと考えるが、いけにえに関してはユダヤ人も奉げない。本来であれば旧約聖書の命じるところに従い、神殿で祭司たちによっていけにえを奉げるところである。しかし神殿は紀元70年に崩壊して今日は岩のドームが建ってしまっている。いけにえはどこででも奉げればいい、というものではないため、その奉げるべき場所がない今は、いけにえや祭司に関する規定は保留されているのである。

 クリスチャンはいけにえについてどう考えるか?人類の神に対する罪を贖い、死後の裁きを過ぎ越すための究極の奉げものはすでに終わった、と確信する。動物の血は罪を一時的に覆うに過ぎない。しかしたった一度で、完全にその罪をきよめる尊い血、そう十字架上で流されたキリストの血である。

 新約聖書のへブル人への手紙は、かつての習慣に戻ろうとするユダヤ人クリスチャンに対して書かれた手紙であるが、そのあたりの神学的論理を「大祭司」や「いけにえの血」といったユダヤ人の感性に響く形で解き明かす。究極の大祭司イエス・キリストが、たった一度で完全に罪をきよめるご自身の血を持って至聖所に入られたと・・・

 そして旧約聖書の祭儀法ではイスラエルの民の中でも、大祭司のみが幕屋や神殿の至聖所に入って神の臨在に伴う栄光に対面することができたが、へブル書では聖所と至聖所を仕切る幕は取り除けられ、すべての人が御子キリストを通して父なる神と個人的な交わりをすることができるようになったのである。

 キリストが十字架についた日、その日もエルサレムは巡礼に来た人々でごった返し、オリーブ山の上まで泊まる所のない人々でいっぱいだっただろう。十字架をかつぐ苦しみの道(ヴィア・ドロローサ)も、とてもおごそかなものではない。マタイ受難曲とは全く別の喧騒、それこそイエスが全人類のために通過した状況の実際である。多くの人々がそこに集まり、その瞬間を目の当たりにしたはずである。その時、歴史は動いた。

 今日も多くのユダヤ人が過越の祭りが指し示す本当の意味を知らない。新約聖書の使徒の働きで、使徒ペテロがエルサレムで説教した「今や主(神)ともキリスト(油注がれたもの)ともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(2:36)という恐るべき真実を知らない。どうかイスラエルの人々が自分たちの大切な落とし物に気が付きますように。

 そして、日本人でまだキリストを信じていない人々が、この祭りの存在や由来を通して「私たちもまた、主を十字架につけた一人です」と、一人でも多く告白するときが来ますように・・・
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