3月13日 日曜礼拝

3月13日 日曜礼拝(45)
天候:曇り

■賛美(聖歌より。括弧内は旧番号) 
・56(112)主なる神を
・474(461)ながしたまいし
・377(384)すべてのめぐみの

■メッセージ:福音のことば① 私たちの罪と十字架(マタイ26:36-46)
① 福音の意義(アダムの罪と約束された救い)
② 過越しの祭りと十字架刑の意義
③ 怒りの杯を飲むことの意義



■ イースターについて
・イースターという名称は本来聖書にはない。復活祭をせよという命令も聖書にはなく、教会の伝統による点でクリスマスと似ている。
・祭り本来の趣旨は、豊穣を祝うゲルマン神話による。名称の由来は神話の豊穣をつかさどる偶像の名より。
・うさぎは多産の動物であり、卵はいのちの象徴として取り入れられた。
・うさぎや卵を祭りの象徴として礼拝に取り入れるようになったのは、16世紀ごろ、カトリック教会によって。
・偶像の祭りは教会の伝統の中で、キリスト誕生の復活祭の意味に置き換えられていった(贖われた)。
・教会が祝うべき祭りの趣旨(キリストの復活のお祝い)に止まる必要。

① 福音の意義(アダムの罪と約束された救い)
■ 福音について §参照聖句 1コリント15:1-4
”兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。・・・ また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、”

・救いが用意されている。それは福音(良き便り)にある内容から、主キリストのわざに信頼を置くこと。
・その具体的なわざは、①私たちの罪のために十字架上で死なれたこと。②墓に葬られたこと。③復活されたこと
・始めの人アダムは神のことばに信頼を置かなかった。結果神が禁じていた善悪の知識の実に手を伸ばした。§創世記 3章
・罪によって、それまでの神との関係は大きく変わった(エデン契約の終わりと、アダム契約の始まり)

・背きの代償:以後すべての人類に対して原罪と死の呪いが加わった。しかし、そこには原福音(福音の基の意)という約束も示され、罪と死の鎖から人々を贖うための救い主の到来も約束されていた。§創世記3:15~
・キリストの到来はまた、アブラハム契約(土地・子孫・祝福)のうちの「祝福」の項目の成就。§創世記12章~
・キリストは「始めのアダム」の失敗を取り返してくださる方。つまりキリスト(最後のアダム)のわざに信頼を置くということは、始めのアダムと手を切り、キリストとつながること。

§ローマ5:18-19
”こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。”

・その時点でキリストがしてくださった十字架が私のものになっている(「主の内にあって」の意味)。
・つまり罪赦され、永遠のいのちをいただく。

② 過越しの祭りと十字架刑の意義
■ ゲッセマネの園での祈りより §マタイ26:36-43
・ゲッセマネの園での出来事、それは過越しの祭りに入る直前の木曜(ユダヤの暦では日没で金曜に変わっている)。
・かもいと門柱に血を塗った過越しの出来事は、主が血を流すことで災いを免れることの予型。
・モーセの律法で求められる祭りには預言的な意味がある。過越しの祭りは十字架を預言した祭りであり、男性は巡礼が求められた。
・「木に掛けられる」とは呪いの象徴である。
・弟子たちと過越しの食事(最後の晩餐)を終えた後である。ちなみに一般の人々は祭司たちより先に過越しの食事に与る。街は既に多く
巡礼の人々で混み合い、そのまま夜を過ごした。イエスたちはベタニヤのマリヤのもとには帰らない。
・イエスたちはしばしば園で祈っていた。§ルカ22:39

・ゲッセマネの意味は「油絞り」。オリーブが絞られるような試練がイエスと弟子たちに起ころうとしている。
・イエスは十字架以前に最高に苦しまれた箇所。この祈りを経て主はすべてを決心して、十字架に向かわれた。
・それはまさに契約にある救い主のわざが完成しようとしていた。エデンのそのでの失敗を取り返すべく、ゲッセマネの園において大きな分岐点を向かえようとしていた。§イザヤ53章

・イエスの行為は、罪なき者が罪びと(イエス以外の全人類)の身代わりとなる贖い主の姿であった。
・私たちは自分自身の罪さえも贖うことができない。それを認めるときに、主の十字架にすがる他に選択の余地はないのである。

③ 怒りの杯を飲むことの意義
■ 主は何を恐れた?
・主が願わくば避けたいの願った「杯」は神の怒りの杯。§エレ49:12
・主は神であり「罪なきお方が罪の入った汚い杯を口にする苦痛」という解釈は旧約聖書で用いられる「杯」の意味を無視している。
・また十字架の肉体的苦しみという答えは不十分である。既に十字架に対する備えを主は済ませてエルサレムに登城されたはず。
・神の怒りを受けるのは、本来罪人である。罪人とは霊的死の状態。始めのアダム以降すべての人々が該当。主がそれを受けるということは、霊的死の状態を通過する(御父との断絶)という未体験の苦しみに対する恐れである。

・十字架上での「わが神・・・」(エリエリレマサバクタニ)という絶望的な祈りは断絶を意味する。
・彼が神を自称したために受ける自らのさばきではなく、罪びとが本来受けるさばきを一身に受けるまことのメシアの姿。
・主は肉においても霊においても完全に死なれ、私たち罪びとと同じ状態を通過してくださった。
・神人の二性を持つ御子が霊的に死ねるのか?という問いは、有限の私たちの理解を超えている。

2016年イースター
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Posted by希望の光バプテスト教会

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